【過去の論考】2005/10/21 全国学力テスト 実施なら教育力を生む覚悟で

概要

これは、朝日新聞』05年10月21日付 私の視点に掲載された小文です。今も私の意見は変わっていません。
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 文部科学省は、小6と中3を対象とする全国学力テストを07年度から実施する方針を固めた、という。教育には「競い合う心」が必要とする中山文科相の考え方に出発しているという。このテストは学校評価に利用することも検討中とのことで、自治体の中には、すでに、過去の統一テストの、学校ごとの平均点を公表しているところもある。
 教育政策の効果に関する分析を専門にする立場から見ると、評価の指標となるような統一テストの実施は歓迎すべきことである。このようなデータは、全国で行われている様々な試みがどのような成果を上げているか、評価するための基本的な資料となろう。
 しかしながら、テストの設計と結果の公表は、学校や教師の努力を正当に評価し、教育政策や現場にとって意味のある結論をもたらすように実施されなければならない。小6と中3のテスト結果のみを公表することでは、到達点の格差だけが強調され、学校の質とは無関係の序列化が固定化されるであろう。それでは教育の質の向上は期待できず、テストを実施する意義に誤解を与えかねない。
 米国では、ブッシュ現政権になってから、多くの州で学力試験に基づいた学校の評価が公表されている。
 私の住むマサチューセッツ州でも「MCAS」という統一試験での、学校ごとの平均値がインターネットで公開されている。地域ごとの差は一目瞭然だが、それだけで特定の学校に生徒が集中するわけではない。
 同州では、試験結果と共に人種構成や給食代を免除されている生徒の比率なども公開されている。そのため、学校や教師の貢献や努力を冷静に評価できる。人種や地域による子供の家庭環境の格差を無視して、結果だけを議論しても無意味であることがよく理解されているためである。
 だが、現在、日本で検討されているような全国テストでは、「結果」は分かっても、教育の効果を測り、学校を評価することは不可能である。なぜなら、学校が何をどれだけ子供に「付与」したのか、学校の「教育力」は分からないからである。裕福な家庭が集まる地域では、学校は何もしなくても、子供の到達度は高くなる。結果だけを見て、その背後の条件家庭に目を向けない調査では、学校のが付与している「教育力」は分からない。
 教育における「競い合い」とは、学校や教師がよりよい教育法を求めて学び合うことにある。競争や比較が学校に正当な学校評価を与えと現場の刺激となる最低限の条件は、生徒の多様性とスタート段階の違いを明らかにすることだ。
 従って、調査は学力の変化に焦点を当てて設計すべきである。テストは同じ子供に対して数年おきに何回かは行いたい。それにより、学校の努力や工夫で学力がどの程度のびたのか、評価が可能になる。担当の教員の情報やクラスの大きさ、そして、可能な限り子供の家庭環境の情報も収集すべきである。
 学校の「教育力」の大きさを議論するようになれば、調査結果の公表が学校の序列化に与える影響は小さいであろう。到達点は高くなくても、「教育力」のある学校には生徒が集まるからである。世論の関心が「子供」の格差から「学校の教育力」格差へと自然に移るのが望ましい。そこまで踏み込む覚悟があれば、統一テストの実施は、日本の教育政策にとって重要な手段となるであろう。